「海の記憶」vol.4 おわりとはじまり

2枚の大きな鏡は、原初であり、原点に立ち返ることを教えてくれる。

大三島・大山祇神社には、非常に格調高い、唐代作の鏡が納められている。国宝・禽獣葡萄鏡(きんじゅうぶどうきょう)。香取神宮、正倉院御物の神鏡と合わせて、「日本三銘鏡」と称される。

大杉の白銅製で、背面にはシルクロードを経て西方からもたされた「葡萄」のモチーフを巧みに中国化した文様が施されている。葡萄は、多産と豊穣をもたらすものとして、中国的な楽園図像のなかに、デザインに取り入れられている。桃源郷のような理想の園。世にも美しい、その特別な鏡が、この島にどのようにして流れ着いたのだろうか。

日本が、まだ「倭国」と呼ばれていた時代である。6世紀から7世紀にかけ、朝鮮半島は緊迫した情勢を迎えており、大和朝廷はかねてより親交の深かった百済からの救援要請に応える形で、約1万人の水軍を編成した。

斉明(さいめい)天皇みずから、伊予の地に立ち寄り、瀬戸内海の沿岸や島々から多くの海部(漁業、航海技術者の集団)たちが動員されたという。禽獣葡萄鏡は、この戦いの前に天皇が勝利を祈願して奉納したものだと伝えられている。

相手は、強国の唐である。勝てる戦ではないことは、明らかだった。それほどまでに、なぜ、天皇みずからが、戦いの地に赴き、挑もうとしたのか。東アジアの勢力図が大きく変動を遂げようとしていた時期でもあり、大陸だけにとどまらず、この日本の地も、その争いのなかに巻き込まれてしまう可能性があった。侵略を恐れて、なんとか日本という小さな島を守ろうとした、という説がある。

出陣を予定していた斉明天皇は、こころざし半ばにして、高齢と長旅の疲れから、戦いを前に九州筑紫の地にて急死してしまう。

母・斉明天皇の遺志を受け継いだ、天智天皇。朝鮮半島の白村江(はくそんこう)へと軍を送った。唐と新羅の連合軍との熾烈を極めた戦いにおいて、百済共々、倭国も大敗を期し、400隻もの倭国の船が海に散っていったという。

唐軍からのさらなる襲撃を恐れた天智天皇は、日本各所の国防を強化した。国防を強化したことで、それまで、バラバラだった国の情勢をひとつにしていくことが可能になり、これ以後、「倭国」から「日本」という、中央集権型の統一された国へと変化を遂げていく。

白村江の戦いが、大きな転換点となった。

天智天皇は、のちに、大山祇神社に一枚の鏡を納めている。長命富貴鏡(ちょうめいふうききょう)。その鏡に込められたものは、国の平和と繁栄への願いだったか。最期まで戦う姿勢を持ち続けた母への想いだったか。今となっては、その真意は知る由もないが、時代の変化に抗うこともできず、多くの犠牲を目にしながらも、必死で護り、ただただ、前に進むしかなかったであろう姿が想い浮かんでくる。

大陸からの自立。国のおわりと、はじまり。
日本の地、そして、自らの足もとをじっくりと見つめ直そうとしたとき、2枚の大きな鏡は、原初であり、原点に立ち返ることを教えてくれる。

  • PhotosYoshiyuki Mori
  • WordsAtsuko Ogawa
  • DesignNoriaki Hosaka