糸は空気を織り上げる vol.2

自由に、ニュートラルに、そして、風のように。新しい変化を受け入れながら、生きていくーそのような気風が、今治の地には流れている。

地域の産業は、人が作り上げている。
当たり前のことかもしれないが
この視点は、外側からだと、意外にも
見失われてしまうことが多い。

土地の歴史や風土が、人を作り上げる。
その地に立ち、生き、そして、感じたことや考えたこと
人と人の交流や営み、すべてが積み重なって
交差して、はじめて、物が生まれてくる。
さらに、その積み重ねが産業という形になって
地域を支え、唯一無二のものとして育っていく。

愛媛県今治市は、言わずと知れた、タオルの産地である。「今治タオル」と言えば、日本では、ほとんどの人が知っているというぐらい、それは周知の事実ではあるが、では、どのような経緯で、タオルの産地になったのかと言えば、「思想」から入っている、という点が、とても興味深い。

1858年に、日米修好通商条約が締結したのを皮切りに、江戸時代の封建社会から、明治時代の資本主義社会への転換がはじまり、地域産業は再編することでしか、生き残っていく術はなかった。

明治以前の今治は、綿織物の産地だった。「綿替(わたがえ)方式」(商人が織機と原綿500匁(もんめ)〔約1,875g〕を農家などの婦女子に与え、織り上がった白木綿2反のうち、1反は織賃として織子に渡し、残りの1反は原綿の代金として商人に納める方法)で製織され、大坂市場に向けて大量に出荷された。幕末期には、年産30万反に達し、「伊予白木綿」として声価を高めていたという。明治期に入ると、綿替制手紡製織の白木綿は、激増する外国産綿糸布や関西の半紡績糸による低廉(ていれん)な木綿製織に対抗できず、生産が減少していった。

そこに、流れついてきたのが、「キリスト教」であり、西洋の文化を形作る源の「クリスチャンの思想」が、地域に大きな影響をもたらした。新しい時代のはじまりと共に、新しい文化として、キリスト教を取り入れた。

なかでも、四国最初の教会として、「今治キリスト教会」が創立され、同志社大学の創立者新島襄や横井時雄などが、宣教を行ったことで、海運、繊維など、当時の今治を代表する企業家たちが洗礼を受けたことは、非常に大きかったと言える。教義だけではなく、文明論や産業育成、地域活性策など、文化的な内容で講義を行ったという。この講義は、瞬く間に人気を博し、キリスト教信仰者は急激に増加した。

「伊予ネル」を創り上げた、矢野七三郎も、洗礼を受けた一人である。1886年には、綿ネル(木綿布を起毛した生地)の工場制手工業生産を開始し、年を追って生産を拡大。先晒し・先染めで、織り込みにより模様を出し、片面起毛であった「伊予ネル」は、海外への販路が広がるにつれて、シーツや枕カバーなどリネンとしての用途としての生産が盛んになり、大正末期には、今治地域は全国一の産地に成長した。

同じく、洗礼を受けた、麓常三郎がタオルを同時に2列織ることのできる麓式二列織機を考案。麓式二挺バッタンともよばれる機械によって、生産効率が倍以上になる、という画期的な技術革新だった。薄地の平織物、金巾用の三幅織機(一幅は36センチ。108センチが織れる)を改良したもので、平織物用の機械を簡単にタオル織機に改造できることから、綿織物からタオル産業へと移り変わっていく。

自由に、ニュートラルに、そして、風のように。
新しい変化を受け入れながら、生きていくー
そのような気風が、今治の地には流れている。

伝統と革新を繰り返しながら
切り拓いていく人々が、この地を作り出している。


参考文献:愛媛県史地誌Ⅱ / 「タオルびと」第一章 明治期における地域産業の発展とキリスト教 城西大学経営学部 辻智佐子
  • PhotosYoshiyuki Mori
  • WordsAtsuko Ogawa
  • DesignNoriaki Hosaka